妙教寺縁起

そもそも当山は、雲然船場地内の沼に祀られていた辨財天を、明治時代の神佛分離・廃仏毀釈の折に阿部留治氏が自宅に勧請し、其の辨財天の霊示を受けた娘の当山開基一乗院妙教日徳法尼が、身延山七面山三十七丁目のお滝に参篭し、寒水に身を浴し七年間難行苦行の苦修錬行(くしゅうれんぎょう)を成し遂げ、行を終えた昭和十一年に身延山第一世総務真章院日雄上人を師事し出家得度、山之坊の一室より総本山へ日参登詣し常随給仕(じょうずいきゅうじ)の至誠を尽くされた。其の当時の身延山は望月日謙法主が猊座(げいざ)に就かれていたので、当山の開山上人と仰ぐ所以でもある。三年間の身延山での修行後の昭和十四年、衆生済度の大願を興し、瀕彼沙羅王が竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)を釈尊に寄進した如く、須達長者が生まれ故郷の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を釈尊に献納した如く、生まれ故郷の土地家屋の全てを本佛に捧げ、雲澤教会を設立したのを端緒にして、昭和二十一年には妙教寺と寺号公称、戦後の本宗第一号の寺院の誕生となったのである。昭和三十六年には本堂の新築を成し遂げ寺観の一新に寄与せられた。開基一乗院妙教日徳法尼の御遷化後、法燈を継承した前住職阿部龍教権大僧正も先代の遺志を継承し、大荒行の世界に身を投じ副傳師職通算十四回・正傳師職二期を務める傍ら、昭和五十二年に現庫裏の新築・昭和六十二年に現本堂の新築・平成元年には仁王門の新築等々、園林もろもろの堂閣種々の宝をもって荘厳し、寶樹花果多くして衆生の遊楽する所を次々に建立され、枝垂桜と武家屋敷の名所と共に、みちのくの小京都に相応しい佇まいを築いた。